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2016年3月30日 (水)

最期の夜(2)

 26日(土)に葬儀も済ませて、四十九日や納骨の準備もほぼ出来ているのに、今更母が亡くなった時のことを書くのもなんだが、前回途中で止めたようになっているので続きを書いてみようと思う。
 人の死をあんなにまじかに見たのも初めてだし、肉親との別れを簡単に忘れたくないような気がしてね。

*

 電話は兄からだった。
 詳細は覚えてないが、内容はこういう事だった。
 『母ちゃんがもうダメみたいだ。間に合わんかもしれんが、早く来い』
 携帯の時間を見ると、午前1時を回っていた。後から計算すると多分5分は過ぎていたんだと思う。

 前回の記事で、病院のエレベーターが4階に上がった所で男性の看護師が待っていたことを書いたが、今となってはあの看護師の登場は(前夜の事ではなく)この深夜の時の事だったかも知れないと思っている。ほんの数日前の事なのに人間の記憶って曖昧だ。似たような状況が重なったせいだろうか。

 病室の母は身体につながれていたチューブ類が一本、二本と外されているところだった。廊下からもベッドの上の顔が見えたが、既に亡骸(なきがら)と呼ぶしかない様子だった。口を開けていたが呼吸をしている気配がなかったのだ。
 不思議な事に例のモニターは脈拍数を50とか60とか表示していて、人の身体は、呼吸はしていなくとも電気信号は心臓の鼓動を伝えてくるらしい。

 時計を見ると1時21分くらい。死亡推定時刻は1時15分と記録されていたので、既に6分経っている事になる。母の顔に触れてみるとまだ温かったのを覚えている。

 兄はすぐそばに居ながら臨終を見届けなかった事を僕に何度か話しかけてきた。
 医師と看護師が母のベッドの横で話しているのは分かったが、冷静な口調だったので、そういう状況だと思わなかったようだ。
 姉はどうしていたんだろう。彼女とも話はしたのに、その時の状況の件は忘れてしまっている。ま、今更ではあるのだが。

 お坊さんのような佇まいの看護師さんが母の身体を清めてくれている間、兄たちは葬儀屋さんに連絡をしていた。

 葬儀屋さんの到着は午前3時。
 霊安室で母と二人きりになる時間が10分くらいあったろうか、映画やドラマで見るよりも小さな部屋だった。
 看護師さんやお医者様が線香をあげていたが、今思えば僕らもあげるべきだったんだろうか? 兄弟の誰もしなかったな。

 実家も病院も葬斎場も全て車で5~10分で行ける小さな田舎町。
 97歳の母の姉弟は全員お墓に入っているし、仲良くしていたご近所さん達もほぼ故人となられているので、母の葬儀は家族葬となった。

 葬儀屋さんとの打ち合わせが済んだ後、母の亡骸の傍で寄り添うように眠っていた姉の姿が忘れられない。

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2016年3月28日 (月)

最期の夜(1)

 兄から、母の容態が悪くなったと電話が入ったのは24日(木)の午後3時頃だった。100ccまで下がったら危ないと言われた尿の量が殆ど無くなり血も交じりだしたからだ。医者からは利尿剤の使用について問われたが兄は断った。この期に及んでの延命措置は母の苦しみを長引かせるだけ。これは以前から決めていた事だった。
 仕事の約束もあり、なんとか夜までには行きたいと思いつつ喪服や数日分の宿泊の荷物をバッグに詰め込みながら時間を過ごした。
 家を出たのは夜の7時半過ぎだった。都市高速に上がってみると、運転席からは満丸い月が正面に見えた。それは時に右側の車窓に移動したり、また正面に見えたり、まるで僕を見守っているように感じた。

 9時過ぎに病院の前に着いた。見慣れた兄の車、姉の車が止まっていた。
 風除室の灯りは消えたままで、入口の自動ドアも閉まっていたが、合わせ目に指を入れると開けることが出来た。
 薄暗い廊下を赤い線に沿って歩く。赤い線の先にはエレベーター。見慣れた廊下だが、こんなに暗いのは初めてだった。
 4階に上がると、僕が来るだろう事を予測していたように若い男性の看護師が会釈をしてきた。いつもの病室に向かったが、廊下からも其処が空っぽであることが分かった。看護師が移動先の病室に案内してくれた。

 開け放たれた入口から姉と姉の旦那さんがベッドの横に立っているのが見えた。
 酸素マスクをした母は大きく口を開けて苦しそうだった。舌も硬直しているように見えた。姉が僕が来たことを母に伝えていた。
 ドラマのように思わず泣きながらとりすがる、なんて事にならなかったのは、認知症で会話もできない状態が長く続いて、自然と母の存在についての喪失感が形成されていたからかもしれない。
 姉は母の白髪頭を擦ったり、頬を撫でたりしていた。同じようにやろうとしたが、自分の掌が冷たいのに気づいて、マスクを外して息を吹きかけた。それはもどかしい位に冷たいままだった。布団をめくって二の腕を擦ってみた。パジャマから肘の先やその先の点滴の針が付いた手の甲が見えたが、今にも破れそうに腫れていた。
 ベッドの横には血圧や脈拍の計測モニターがピッ、ピッと音をたてながら働いていた。

 女房にメールを打っていると、兄がやって来た。病院の前のコンビニに行って空腹を紛らわせたらしい。
 今晩は、兄と姉が病院に泊まる予定だと言った。介添えのベッドは一つだったが、姉が椅子を並べてでも一緒に居ると言ったらしい。
 看護師にモニターの音を小さく出来ないかと兄が言った。母にその意味が分かるわけもないと思っても、どこか事務的なその音が気になったのだろう。まるでお坊さんのような佇まいの背の高い看護師さんが対応してくれて、少しだけ機械音は小さくなった。
 兄も姉と同じように母の身体を擦っていた。ようやく温まって来た掌で僕も母の顔を触ってみた。温かかった。
 突然母が大きく口を開けた時があったが、あれは欠伸をしているんだと兄が言った。

 仕事を終えた姉の息子もやって来た。僕の娘の4つ下、息子の4歳年上の甥っ子だ。ジジババと同じ町に暮らしているので、赤ん坊のころから祖母ちゃんに見守られていたはず。ベッドの横でジッと祖母ちゃんの顔を見ていたのを今思い出す。

 夜中の11時を過ぎた頃に、一度実家に帰ることにした。甥っ子と義兄も居たが、彼らは翌日も仕事のはずなので、帰宅を促す意味もあった。
 義兄は息子の車で帰った。帰りの方向は途中まで同じだった。

 古ぼけた家に一人帰り、少しぼんやりとした後、熱いシャワーを浴びた。前の夜に兄が使ったベッドを整えたが、直ぐには入らずに、買ってきたペットボトルの水を電気ポットで沸かして炬燵で飲んだ。テーブルの上には、介護施設の部屋に飾ってあった母の写真が何枚か置いてあった。

 お布団に入って30分も経ったろうか、枕元に置いていた携帯が鳴った。
 

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2016年3月21日 (月)

花粉症

 福岡市では桜の開花宣言がでたはずだが、お散歩コースの市民センター横の池の桜はカンザクラ以外は一輪も咲いていなかったような・・・。
 暖かくなったかなぁと思ったら、突然ぶるっと寒い日が続いたりのお天気のせいだろうか。おかげで、今年の花見の期間は長くなるらしい。

 97歳になった母を先週の土曜日に見舞った。この日は兄の車で一緒に行った。痰が絡んでいた頃より幾分目力があるような気がしたが、足の腫れは変わらず、何の力にもなれないのが情けない。
 病人の身になれば、口の中が臭くて嫌だろうにとか思うが、こればかりはどうしようもない。せいぜい唇の周りを湿した脱脂綿で拭いてやるくらいしか出来ない。
 改めてベッドの横のメモ板を見たら、入院は2月の25日だった。当初の肺炎から考えるともうすぐふた月になるんだな。

 花粉症を持っている兄が、この間までは今年は大したことがないと言っていたのに、昨日あたりから酷くなってきたらしい。
 大正生まれの父も母も花粉症などとは無縁だが、兄と姉は中年期からだったと思うが薬のお世話になっている。同じ家に生まれ同じものを食べてたはずなのに僕だけは花粉症ではない。毎年一瞬、あれっ、とうとう発症したか?と思う時があるが、くしゃみと少しの鼻水で済んでいる。
 高校生の時にやった蓄膿症の手術のせいだろうか?それとも、子供の頃にアオバナを垂らしていたせいだろうか?

 ついでに、我が家では息子だけが花粉症だ。高校を卒業する頃だったろうか、発症は。そういえば妻もこの時期にはくしゃみがよく出ているが、薬のお世話にはなっていない。

 花粉症と言えば杉とかヒノキとかが悪者のように名前が挙がるが、桜の花粉は大丈夫なんかな?

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2016年3月14日 (月)

母と息子

 2月の初めに肺炎で入院した母は、2週間程度で退院したが、数日で反対側の肺に再発、再び2週間程度の治療を余儀なくされた。肺炎の数値は消えたものの、その後今まで生活していた老人介護施設に戻ることは叶わず、その施設の近くの病院に再入院した。自力で食事を摂るのが難しいのだ。

 1919年生まれで今週の金曜日18日には97歳になる。意識はあるが、6年以上前から発症した認知症が進行していて、会話は出来ない。

 先週が山と云われて、広島から兄が、奥さんと去年嫁にいった娘と3人で見舞いに帰って来たが、そのまま兄一人が実家に残り、母と、近くの施設に入っている父親の世話をしている。
 18歳で高校を卒業してからずっと広島に暮らし、生活の基盤を築いた兄が好きだった母は、盆、暮れに彼が帰省する度に喜び、再び故郷を離れる時に泣いた。父親に厳しくされた長男坊が可愛くて仕方なかったみたいだ。

 仕事で福岡を離れられない僕は、毎晩実家の兄に電話をして、様子を聞いている。
 母の好きだった島倉千代子や津軽三味線、民謡のCDを聴かせたらしいけれど、特に反応はないらしい。
 兄と話をしていて、彼が40数年分の親孝行を今しているような気がしてきた。

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2016年3月 8日 (火)

梅 満開

 先週の土曜日に実家に寄りましたら、庭の梅がこんなに満開に咲いていて、主が居なくなった家に何故に・・・と妙な気持ちになりやした。皮肉なもんやね。


160305_


 その日は、今夜から泊まりに来ている兄の為に、お布団を干していて気づいたんだけど、風が少し吹いていて、ハラハラと舞う梅の花も綺麗だったなぁ。

 ちょっとこんな歌も思い出した。


 

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