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2011年3月29日 (火)

戦場日誌

 あるブログで、今回の地震被災地に医療支援チームのスタッフとして行かれた女性のブログが紹介されていました。まだ20代と思しき彼女の被災地での活動とその時の素直な思いが書かれていて、TVや新聞報道では聞けない生の状況が伝わってきます。

 被災地の様子は彼女の目を通したものですが、TVのレポーターのように声を張り上げるでもなく、冷静に事実を捉えながら、尚かつ素直な感想も綴られているので現地の様子が生々しく浮かんできます。特に、看護師として接する老人や子供たちの話には、コチラも読みながらつい涙する場面も。

 是非ご一読下さい。

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2011年3月27日 (日)

知人の訃報

 今日、古い知人の死を知る。
 以前勤めていた会社で、同じ名前だったものだから、彼は「○○ A」と呼ばれ、僕は「○○ B」と呼ばれていた。先に僕の方が辞めたから、彼の消息は知らなかった。今もその会社にいると漠然と思っていたが、既に彼も辞めていて、亡くなった時は鹿児島にいたらしい。

 同じ北九州の出身。
 僕の方が社歴では後輩だが、年齢は一つ上だった。
 同じ独身寮に入り、週末は大勢の仲間と共に、一緒にテニスをしたり、焼鳥屋で騒いだり、夏には海にも行ったこともある。無駄な贅肉が無く、しなやかな黒豹を思わせるような身体つきをしていて、夏にはいつも白いスニーカーを履いていたことを思い出す。

 鹿児島は彼が仕事で良く行った場所で知り合いも多かったので、退社後の勤めがそちらだったらしい。死因は一酸化炭素中毒。
 年末に自宅の倉庫を片づけていて、倉庫の中が寒かったので七輪か何かを焚いていたらしい。外から帰ってきた子供が見つけたとの事。そんな不注意な事をする人間では無かったような気がするんだが・・・。

 ご冥福をお祈りします。
 合掌

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2011年3月18日 (金)

岩手県宮古市

 3.11、午後三時前。
 ピクリともしなかった福岡で、しかもTVを見ているわけでなかった僕が東北の大地震を知ったのは、ツイッターにアクセスして、フォローしている東国原英夫のツイートが目に入ったからだ。

 『今、凄い地震です。』(posted at 14:50:22)

 すわ、関東大地震かと、すぐにTVをつけたら、やがて東北地方の漁港らしき映像が出てきた。そこは宮古市の漁港に取り付けてある情報カメラ。
 魚市場のような片方の壁が大きく空いている鉄骨造りの建物の土間付近に、ヒタヒタと海水が上がってくる程度だったのが、ものの数分も経たない内に人間の腰くらいの高さまで浸かっていき、やがてスレート屋根の庇までも・・・。
 建物の向こうは岸壁も海も境はなく、その辺りの駐車場に留めてあっただろう沢山の車が、まるで小さな子供がオモチャのミニカーをお風呂で弄ぶように、いとも軽々とあっちへこっちへと波の上を転がっていた。凄かった。

 宮古市は他の三陸海岸の町と同じように過去に何度も津波の被害を受けており、田老地区の湾には津波対策として総延長2.5km、高さ10mに及ぶギネス級の巨大防潮堤が存在し、更には陸地においても同程度の防災能力を持つ防波堤があったそうである。
 1960年(昭和35年)5月にチリ地震による大津波が襲来したが、この防潮堤が被害を皆無に留めたという記録があるが、今回の津波はこの防潮堤を壊し、更にはもう一つの堤も越えて来た。港湾空港技術研究所の現地調査によると、今回三陸海岸を襲った津波の高さは、15メートルから20メートルにもなったと推定されるらしい。改めて自然災害のもの凄さを感じてしまう。

 森進一のヒット曲に「♪港町ブルース」という僕も好きな曲がある。港町に住む女性が去った男を想っている歌だが、歌詞の中には日本各地の港町の名前が出てくる。

 「♪み~なと~ みやこ かまいし~ け~せん~ぬま~」

 宮古、釜石、気仙沼。東北地方の代表的な港町として唄われた地域が、まさに今回の被災地だった。

*

 被災地はまだ雪の降る冬のまっただ中。避難場所に居ても、寒さや滞る医療品などのせいで、すでに二桁に上る人々が亡くなっている。
 ストーブがあっても、燃料となる灯油が不足しており、更には救援物資を運ぶ車用のガソリンも既に底をついた地区もあり、一刻を争う事態が継続しているらしい。
 青森経由のアクセス、関東からの陸路も通じたようだが、福島原発事故の影響で、茨城から福島に上がる経路は民間の運送会社の便数が減って、物資の不足に追いつかない模様。
 今夜には福島原発に送電線が繋がり、電気系統が復旧すれば、事故の鎮静化も大きく進むと思われるのだが・・・。

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2011年3月16日 (水)

宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)

 南三陸町(みなみさんりくちょう)。正確には、宮城県本吉郡南三陸町である。
 この度の東日本大震災で被災し、翌日には人口17000人の半数以上、1万人の安否が不明だとしてニュースが流れた町だ。その時点では町長の行方も不明だったが、その次の日だったか、町長の無事が確認された。

 TVカメラの前で町長が当時の様子を話した。
 3月11日、地震があったときには町の防災センターで会議中であり、その3階建ての建物は津波も予想しての高さだったので、その他の職員らと見守ることとした。ところが、やって来た津波は予想以上で、町長らは屋上へと脱出した。町長は屋上へ向かう外階段の手摺に掴まったが、波はその上を通り越し、3~4分行きつ戻りつした。
 鉄骨階段が丈夫であった為、必至でしがみついていた町長はなんとか流される事は免れたが、気がつくと30人ほどいた職員は十人足らずに減っていた。そう言って町長は唇をかみしめた。

 鉄骨造の同センターは、骨組みを残して外壁等全て無くなっていた。2階で町民向けの避難放送をしていた職員が津波の直前までいたらしいが、その職員がどうなったか分からない。

 ウィキペディアによると、2005年10月に本吉郡志津川町及び歌津町の合併により出来た町で、町には五つの小学校と四つの中学校、そして公立高校が一校あるそうである。

<南三陸町の成人式は毎年夏、それも基本的に終戦の日に行う。これは旧歌津町、志津川町時代からの名残である。過去に一度他の多くの自治体と同じように1月に行う案も浮上したが、その年の新成人達から反対の声があがり、現在も夏のままである。戦没者への黙祷などをするためか近年問題となっている新成人のモラルの低下による七五三現象などは見られない。>

 昨日のニュースでは、安否不明だった1万人の内、約2000人が避難していたことが分かった模様。その他の方々もどうかご無事であることをお祈りする。



pencil 16日のブログで宮城県南三陸町の災害について書いたが、同町の防災庁舎で最後まで津波の避難を呼びかけていた職員が、20代の女性だった事を今朝のTV番組で知る。新婚さんで、近々、披露宴が予定されていたとか。未だに行方不明らしい。ご無事を祈る。
[Mar 21st twitterから]

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2011年3月15日 (火)

原発事故の説明など

 堀江もんのツイッターを見ていたら、今回の原発事故について、大前研一が解説するYouTubeがあった。東電の会見よりは分かり易いので載っけておく。


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2011年3月12日 (土)

3.11 東日本大震災

 ツイッターは緊急用に使われているようなので、福岡の自分は遠慮して、ブログに記事を書く。

 niftyのニュースで、「地震で地殻大変動、地球の自転速まる…NASA」と、あった。内容は・・・
<東日本巨大地震の発生で、地球が1回の自転に要する時間が、1000万分の16秒だけ短くなったとみられることがわかった。米航空宇宙局(NASA)のリチャード・グロス博士(地球物理学)が計算した。
 大地震で地殻が大きく動くと、地軸がわずかにずれる。コマの形が変わると回転が変化するように、地震で地球の自転が影響を受け、回転が速まったと考えられる。>

 数字は大したことでは無いように思うが、わざわざ計算してみたくなる気にさせたのが凄い。

 昨日は息子の卒業式で、夕べや今朝のTVニュースでは、そんな彼らの様子がお目出度い雰囲気で放送されるハズだったのに、九州では、新幹線開通の式典も中止になり、とにかく、“2011.03.11”は忘れられない日になりそうだ。

 昨日の夜の段階で死者は100人を超すと思われたが、今日の午前中で既に1400人の予想。岩手県と宮城県の県境の海沿いの町が津波の被害が大きく、多分、予想の数倍の人的被害が出てきそうだ。

 どこかのブログにも書かれていたが、放送局がどのチャンネルを回しても似たようなニュースしか流さないのが非効率だ。地域を分けるとか、内容を分けるとかして、もっと国民の益になるような放送をしてもらいたい。放送をしながらでも良いから、そういう協議もしてもらいたいね。
 確かに津波の被害は多いだろうが、地震はもっと内陸でも酷い状況を作り出しているだろうに、その辺を追うマスコミが皆無なのが情けない。

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